昭和48年01月23日 月次祭



 今日を挙げて一斉に寒中修行が、どこの教会お広前ででもあっております。ここででも毎朝勇ましい様な御祈念会が続けられております。もう後愈々十二、三日になりました。まだ参加しておられない方は、二日でも三日でもいいから、一つ何とか工夫して遠いからなどと言わずに、もう一つ本気でね参加させて頂いて、その雰囲気を味あわせて貰い。その味わいを愈々信心の有り難さ、有り難いというものに結んで行くような、一つおかげにならなければいけません。
 二、三日前が大寒の入りでございましたか。大寒だと言うのにそれこそ、部屋にストーブが要らない、暖房が要らないように暖かい。いわゆる暖冬異変とでも申しましょうかね。何時でしたか随分以前ですけれども、あんな御理解を頂いた事があった。暖冬や火葬場までの磯づたいという。これは静雲さんか誰かの句でございます。河野静雲さん。暖冬や火葬場までの磯づたい。これはその情景を詞にしておられる訳でしょうけれども。私はそれを御理解にですね頂いたんです。
 なるほど冬は寒いものだと決まっておりますけれども、言うなら暖かい。本当に今年はもう暖かくしてよかですねと。まあ年寄りの方達はそう言いますね。けれどもそれでは、火葬場までに早く繋がる。そんな感じが致します。誰でも楽であるという事は、願って止まないのですけれども。その楽であるという事は、早死にを意味する事であり。又はいわゆる火葬場までに直結する事である。
 先日から頂きます御理解の中に、楽という事は傍楽という事だと頂きました。楽という事はもう最高の楽というのは、傍楽という楽が一番の楽なんだ。それを例えば寒い時に、いわば暖かいという事を喜ぶという様な事ではね、おかげにならない。やはり例えば今頃はどうか知りませんけれども、昔は麦が蒔かれますと少し芽が出ると、こう麦踏みというのをやってましたよ。踏みつける。でなからんと根が張らない。いわゆる伸び過ぎたんでは、実りにならないと言うのです。
 これはもう道理ですから。人間でもやっぱり同じ事。だからです踏みつけられてもです、踏みつけられても、横に咲くというかね。踏みつけられても踏みつけられても、横に根を張っていくと言うか。そういう信心が大事です。そういう意味で私は一年のうちに寒修行という一月間の修行期間が設けられて、それは眠いけれども、寒いけれども。その眠い中に寒い中にです。眠さを堪え寒さを忍んで信心修行に励ませて頂くと言う様な事はです。そういう修行がなかったらね。
 愈々の時に私は先日、ある方のお取次ぎをさせて頂いた。まぁその人の一身上にとって、大変な難儀な問題であった。その事を私はお取次ぎさせて頂いて、その人に申しました事が非常に厳しい、その人にとっては厳しい事であった。とてもそんな事が出来ますもんかいと、いっぺんで撥ね付けられるような事を私は申しました。もう本当にいっぺんにね。人相がパーッと引き締まってから変わってしまうんです。だから私はこの方にとってはね、さもあろうそうでもあろうと思いました。
 それからもう二、三分も経たない内にです。私が何事かを申しましたら、控えでお話をしておったんですけども。もうここまで聞こえるような大声あげてから、こうやって笑いました。私はそん時に嬉しかった。もう心の取り直しが出けた。受けようという気が出けた。日頃の信心だな、稽古だなと私は思いました。もうこれで大丈夫と言う様な気が致しました。それはもう本当に聞いた途端にですね。顔の筋肉がこう引き締まってしまうほどしの厳しい事だったんですよ実は。
 けれどもねもう二、三分後には、それを本気で受けようと言った時には、あれは少しは、そのオーバーだったかも知れませんけれども。彼はそんなにいつも大体大声上げて笑う様な性格じゃないんですけれども。もう大声を上げてこうやって笑った。はぁ先生そうでしたとこう言う事である。そう言う事がですとてもとてもです、日頃熱心に信心の修行にいそしんでおる時でばしなからにゃ出来る事っじゃありません。
 それは二日も掛り三日も掛って、色々考えてそしてお願いをして、取り直しが出けるかも知れませんけれどもです。本当に信心の稽古の賜物だ、今寒修行に一生懸命、家族中でお参りをして来ておる。本当に賜物だという事を、そん時私は本当に感じました。それは成程何も不自由がない。健康でもあり家庭も円満であり。商売も例えば都合よう行っておる。そういう、例えばおかげを頂いておるという事はです、有り難い事ですから。本当にそれが有り難いとわかった時には、どういう事になるでしょう。
 その健康をもって、その繁盛をもってです。その家庭円満をもって、あげて神様へのお礼の信心が出来ておる時であって、初めてそれは円満であり意義がある、健康であるところの値打ちがある訳です。ですからいかに例えば、暖冬であっても、暖かい冬であってもです。やはり寒修行なら寒修行に打ち込ませて頂くと言う様な信心がどうでも大事。そして、愈々本当の意味においての楽を願い、楽を求めてのおかげでなからなければならん。その最高の楽と言う事は、傍楽と言う事なんだ。
 私はこの御理解を頂いてから、随分是はどなたが言い出された事か知りませんけれども、傍楽という事は傍を楽させる事だと。高橋正雄先生なんかは、そう仰っておられましたですね。働くという事は自分の周囲を楽にさせる事だ。主人は家内、家内は主人。親は子子は親をと、如何に自分の周囲が楽になるように、楽になるようにという事は、そのまま自分というものを、空しゅうしなければなりません。楽という字は、真中に白という字が書いてありますでしょう。
 そして下に大きな木が書いてあるでしょう。大きな木は心。白と言う事は我を白紙にする、空しゅうする。そういう生き方にならなければです、人へ繋がって行くいわば楽になって行くというかね。人が楽になるようなおかげには繋がらない。そういう在り方が、横にこう、糸偏の点々のないとが書いてありますが、あれは神様へとの繋がりと。天地での繋がりということ。ここでは10月に、あれはどうした事だったでしょうか。和賀心時代のご本が出来た時だったからでしょうか。
 ゲンチョウと言う、信徒会で発行されております、本がもうその時に来とったけれども、他所には来てなかったらしい。それで昨日の信徒会で、皆またここで各教会に配布があった。だからここにも置いて行かれた。だからだぶった訳です。ところが申し込んでおられる方達が、今度の竹内先生一家の事が出てるんです。ですから皆さんだから、余分に沢山来ておりますから、どうぞお買い求めて頂いて、読んで頂きたいと思うけれども。竹内先生の信心がお若い時から、今日合楽に御神縁を頂いて。
 そして合楽の教徒としての信心。しかもその信心を現在、伊万里市の市政の上にです、現しておられるというお話が出ております。ずいぶん長い記事で出ております。そのいわば、信心の中心になるものは、天恵地恵だと大きく見出しが書いちゃる。天恵地恵の信心。神様のおかげを受けるという事は、私どもがです本気、言うなら、伊万里市の中心にならせて貰おう。合楽教会なら、教会の柱にならせて頂こう。それこそ日蓮上人様ではないですけれども。
 われ日本の柱にならん。と言った様な、私はそういう潔い信心だと思います。そういうお役に立ちたい、立ちたいと言う一念なんです。そういう心に天の恵みというものは必ずあるんだという訳です。四、五日前でしたか。朝の御理解に、朝の御理解だったと思います。ある教会の古い教会の、大きな教会のご信者さんがお参りして見えた。恥を忍んでここにお願いに来たと言うて見えられた。それが母の信心を子供が頂き、その子供が又その孫に受けさせようという母親の願い。
 切なる願いがどうでも、本当にお役に立つ信者氏子にお取り立て頂きたいというのが、母の願いであった。それがまあ私共兄弟では出来なかった。ご兄弟全部楽のおかげを頂いておる。全国でも有名な楽人さんご兄弟とも。けれども本当の御用は、これはお道の教師に、お取り立て頂かなければならないという事を思わせて頂いて。お道の教師にお取り立てを頂く事を母の願いにして、ご長男に話された。それでお婆ちゃんを知っておりますから。本気でそういう、昨日も信徒会で見えとったその息子さんが。
 それで決心して本部にも手続きを取って、教会でも大変喜んで下さった、お道の教師になろうと言うのですから。それでほんなら暫くなりと、教会の御用をさせて貰うて、教会内の事情にも明るうならないかんと言うので二、三日、教会に行かれた。たまたま教師会がそこであった。それであんたも将来はお道の先生にならにゃんとじゃけん、教師会に入りなさいと言うて入って、先生方のお話を聞いてもう幻滅を感じた。もう血の引く思いがしたと。これがお道の教師の実態だろうか。
 これじゃ成程人が助からんはずだという事が分かった。もう折角手続き取って貰ったばってん、僕はお道の教師は、もう断念したと言うて帰って来た。それこそお母さんは、目の前が真っ黒なった。母の願いというものが、この子に継がれるという事を。この子がその事になってくれると。あんたがお道の教師になってくれるなら、お母さんなもう即刻死んだっちゃよかごと思うとるとに、今そげな事、いやそげなこつなら尚ならんち言うて。僕が教師になって、あんたがすぐ死ぬならどうするか。
 親孝行したいばっかりで、僕はお道の教師になろうと思うたけれどもです。これがお道の先生達の姿かと思うたら、僕はもう止めたとこう言うのである。これは合楽の先生になっとん、おすがりせにゃ出来んと言うて、お願いに見えたのでした。私は大きな教会、昔のその教会辺りには、そういう熱心な信者さん方が、やっぱ沢山おられた。甘木辺りはやっぱそうだったらしいですね。
 もう昔は、子供さんが五人も六人もおりますと、その中の一人くらいは、お道の教師にお取り立て頂きたい。これはもう信者としての誇りであった。例えば平田さん辺りでも、子供さんが教師になっちゃるでしょうが、何でもないけれど。それが親の願いである。だからお互いがです、何人も子供さんを持っとるなら、一人くらいはお道の教師に、言うなら、捧げる気持ちで、世のため人のためにならせて頂けれるおかげを頂きたいという願いをです。合楽の皆さんでん、持たなければいけませんよという話が、四、五日前にしました、その話を通して。
 そしたら即刻明くる日からある方がですね。今毎朝そのお届けがあります。どうぞ子供の誰それを、それは丁度まだ椛目時代にです。お夢を頂いておった事があった。親先生が、素晴らしい険しい山に、一生懸命に登っておられるのに、私の今の息子が後ろから一生懸命ついて行っておる所であった。親先生どういう事でしょうかと言うて、お伺いをさせて頂いたら。親先生はそりゃ意味慎重だねと。そういうおかげを頂かにゃいけんばいと、そん時言うておられたけれども。まさかお道の教師とは思わなかった。
 そしてあの朝の御理解を頂いて、その明くる日から、毎日お届けがあります。どうぞお道の教師にお取り立て、もうそれは切実。ところが先生おかげで、そういう願いをさせて頂くようになりましたらです。体がしゃんとしてきた。元気が出て来た。素晴らしいです。いわゆる素晴らしい願い、素晴らしい祈りというか。言うならば神様が生き生きして見えるほどしの、願いというものが出来るようになるとです。
 心がそれこそ弾んでくるのです。それ以来、毎日そげん毎日言わんでんよかがのというぐらいに、この事だけは毎日言われるです。どうぞ誰々と何々という氏子でございます。お道の教師にお取り立てを頂きますようにという願いを母親は掛けておる。けれどもです、そういう願い祈りというものが、ほんなら親一代で、例えば叶わなかってもです。その子がまたその事を、祈り継がせて頂くと言う所にです。さっき申しましたような事になって現れて来ておる。そして断念したというのがです。
 昨日ここにもお参りをして来ておりました、しかも私の横に座っとるもん。私はびっくりした。私は昨日初めて信者さん、ここの共励殿でしたけど、あちらの方で座るのを、私は信者さん側の方から、こう見せて頂いた。合楽教会の共励殿は、こっち信者側さんの方から座った方がいいですね。こう床の間がこう見えて。そしたら私の横にそれが座ってる。ほれで今日は今度は、私どもの二番目の息子も行く事なっとるから。
 まぁお話をしなさいと。そしたらここのバンドの模様なんかを見せてくれと言うて、光昭に言うて色々話をしよるようでした。だからどうもまた心が動いて、やっぱりまた道の教師を志そうという気になっておるような模様であります。親の切願ですから。願いです。そこには親は命をかけて、その事を願っておる。そこにです私は生き生きとした信心。私は今日思わせて頂いた。
 今日は月次祭ですから、両親と一緒にご飯を頂く日なんだ。それで丁度明日、中島の上滝さん所の宅祭りですから、お願いにちょうど参って来た。もうご飯のこう出とるのでね、一緒ご飯頂いて行きなさい。と言うて一緒にご飯を頂かせて貰った。とお婆ちゃんが、もうここへ座っとる。もうお婆ちゃんな元気な、どうすんのち言うちから、言うて聞くけん。もうそればいちいち、上滝さんが返事しよるばってん、全然耳に入りよらん。私はもう耳が遠うしてどんこん出けん。
 もうどんこん出けんごとあるなら、婆ちゃんもう聞きなさんなち私が言うた。それでもやっぱり聞く。それを私はそんならそうたいのち言いよるけれども、また聞きよる。やっぱこれじゃ若いもんが側に寄り付かんごとなるばいと、私は思いました。私どもはですね本当にこれは人に寄り付かれる、私どもにならにゃいかん。口を開きゃお説教。それはお説教もよかろう、相手に入って行くなら。もう入らんならば、絶対言うちゃならんです、言うて聞かせると言う様な事を。
 そして思うなら思うほど、祈る願うという事にならにゃいかん。そしてから色々思わせて頂いたんですけれども。もうただにこやかに、にこやかになる、一つおかげを頂かにゃいけんと思う。これならばですもう誰でん寄り付いてくるです。もうこりゃ人だけじゃありません。もう絶対お金でも物でも、これなら寄り付いて来るです。お金は欲しいと言いながら、苦虫噛みつぶしたのがこうやっとるなら、とても金をえすがって、逃げち行くですよやっぱり。そりゃもう人でもそうです。
 もう本当に側におるだけでも、楽しいというようにです。それにはやっぱりあのニヤニヤではいかんですから、にこやかでなからにゃ。あれはまた気色の悪かですニヤニヤ笑わるるなら。軽蔑されとるごたる。だからもう本当にです最近言われる所の、五つの願いというものが、本気で願われなければ、にこやかにもなれないと思うです。もう腹んこわしかつにニヤッと笑われはしませんもんね。はぁうちわがぶっつりがっすりしよるとに、ニコニコはしておられませんもん。
 このままで行くなら、愈々子孫繁盛家繁盛に繋がるぞ。子供も信心をしてくれる。孫も一緒に参ってくれる。こんなら子孫繁盛に繋がるぞと思うから、にこやかに出けるのです。おかげでう痛くもなけりゃ、痒くもないと思うから有り難い。ですからもう本当にやはり、この五つの願いというものが真剣になされて、それをおかげが頂けれる確信を持ってお互い、信心を日々させて頂かないとです。そのいわゆる金に好かれる、人に好かれるという事も出来ない。もう顔を見りゃ悔やみ話。
 ほんならもう出来るだけ、やはり側には寄り付きたくない。そりゃもうにこやかにしとるだけでも、おかげが頂けるという事が分かります。最近この傍楽という、あの御理解を頂いて。傍を楽させるという事。これが最高の楽だと。それには自分というものを、いつも、いわば空しゅうして。自分をいつも捧げた気持ちで。自分の周囲に奉仕させて頂くという信心。同時に愈々五つの願いが成就致しますように、本気で修行させて頂いて、おかげを頂いて行かなければならん。暖冬や火葬場までの磯づたい。
 いかにもそれは暖冬であるという事は、結構ですけれども。有り難いというものが伴わず、信心修行が伴わず。言うなら今朝からの御理解ではないですけれども。世界中の氏子におかげがやってあると言う、そういうおかげを言うなら、起点として。もう信心がなくてもあっても頂いておるという、そのおかげを起点として、信心が進められて行くという信心。そこに、有り難いというものが感じられる。
 そしてこれは信者氏子でなからなければ頂けないというほどしのおかげを頂いて、いよいよ子孫繁盛家繁盛のおかげを、確信する事が出けるようなおかげを頂きたい。愈々寒修行もあと十幾日。それはもう暖かいですから、寒修行にもならんごとあるけれどもです。やっぱり、朝ともなるとそんな訳にはいかん。やはりそういうね、日頃は朝参りも出けない。朝参りが出ける人達がお参りをするだけ。
 朝参りをする人達が、言うならば家族の方達が、頼んでからでもと言うので、最近はそれこそお月次祭よりも、もっといっぱいですね。ギッシリここで朝の御祈念を、皆さんなさっておられる。それでも顔振れというものが、日頃参っておる者の、言うなら人で私は寒修行というのも、日頃お参りが出けない人達がお参りをするべきだと思うんですけれどね。もう日頃は月次祭だけと言った様な人達が、せめて年の内寒修行だけぐらいはと言うて、寒修行は特別色々工夫をして、お参りをしてくる。
 そういう生き方がです、どんなに例えばおかげを頂いても、ほんなら、冬にそれが暖かい、言うならばおかげになっておってもです。それが火葬場までの磯づたいにならない為にでもです。私どもが、心から、修行の精神というものを忘れず、傍が楽になる。傍を楽にするという、自分を空しゅうした心の状態というものを、いよいよ本当なものを頂いて。いわゆる、私の周囲におると、皆が楽だというような、有り難いというような忠臣に、一人ひとりがならなければならない。
 それにはほんなら、天恵地恵です。言うならば世のお役に立ちたい。それこそ世界の柱にでもならせて頂きたい。と言う様な大きな祈りとか、願いを持たせて頂けるように、信心が進んで行かにゃいけん。そこから今の子供をお道の教師にと言うて、願うようになったところがです。本当に元気が湧いて来た。今までの望み願いというものが、もっと偉大なものになって来た、尊いものになって来た。
 そういう信心がある限りです、暖冬異変という事はなくなってくる。例えばおかげを頂いておるからと言うて、それに腰掛けておるという事が、これはもう暖冬異変です。先日の御理解45節で、御理解を頂いたように。先生と言われ、旦那様と言われるようになると、ついつい人に頭を下げる事が出来なくなって来るというのは、おかげを頂いておると、だいたい、先生と言われるほどしに。
 旦那様と言われるほどしにです、いわばおかげを頂いておるのだけれども、それが本当なおかげでない証拠に、それはちょうど腹が大きゅうなっとるが、腸満のようなもんだ。だから、頭が下げられんのだという御理解を頂いた。おかげを頂けば頂くほど、頭が下がってくるという信心でなからなければ、本当なものじゃないという事をです。今日は暖冬異変というような事から、皆さんに聞いて頂きましたですね。
   どうぞ。